●翁考‥能にして能にあらず。能の原点として重要な儀式性を保ち続ける「翁」のはなし

「とうとうたらり、たらりらという謎の呪文では始まる。曰く、つららの氷が融けだし春の水の流れゆく様子、
チベット発祥説、そもそも意味などない、神の言葉説‥。
いずれも的を得ているようで、いまひとつ腑に落ちないところがいっそう「翁」の神秘性を高めてきたともいえる。
しかし、これほど神聖視されているものの起源が「分からない」ことが気持ち悪い、性分なのだ。
もしも意味があるならば意味を知って唱えなければ天には届かないだろう。意味が無いなら無いで、
中途半端に意味を感じて唱えたらこれも純粋に天には届かないだろう。そんな思いで折にふれ
「とうとうたらり」の起源を調べていたが決定打と思える説には出会わなかった。そんな中、
「後から作ってこじつけたと考えるには無理がある」起源と思えるものに偶然出会ったのだ。
もとめよ。さらば、与えられん。それはある年の奈良春日若宮おん祭り。ある人との出会いがあって、
奇妙におん祭りが気になっていた。早速おん祭りを見に行き、能との深い縁を知り、舞楽の美しさに魅せられた。
そして南都楽所の楽人、信雪さんのHPを見ていたとき、あのフレーズが左から右に、流れながら目に
飛び込んできたのだ。
     
   
 トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥  
      
えっ‥何度か読み直す。「とうとうたらりたらりら」と関係があるどころかそのものとしか思えないこの場合、
問題は「どちらが先か」である。半ば期待しないように覚悟して信雪さんの解説を読む。
これは『新楽乱声』(しんがくらんじょう)といい、おん祭りで春日の若宮様をお迎えにゆく儀式で奏でる
雅楽の音色
のこと。楽人(がくじん)の控え所に案内の神官がやって来て「初度の案内申〜す」という声を
三回となえる。楽人は「オー」とこたえた後、笛と荷太鼓の演奏者とだけが若宮神社の石段の下に行き、
初度の乱声を奏でる。いちど控え所に戻り、30分毎に三度の乱声を奏でる。三度目は、笙、篳篥、龍笛も
加わりようやく若宮様をお迎えすることができる。この儀式は秘儀とされ、真夜中0時、星明りのみの中で
行われるという。

春日が重なる。この、「楽の音」によって神は降臨するのだ?しかし、能の中で春日の神様自身
登場し舞を舞うことはない。能「翁」に登場する「白色尉」「黒色尉」「千歳」とは何なのか?
の、もとい、猿楽の発祥の秘密に関わる重大な伝説が、もうひとつの春日にある。

奈良豆比古神社の伝承
奈良の市街地から北西4キロ程のところに奈良坂(百万のクセにある)と呼ばれる長い坂の続く街がある。
ここに、『延喜式』(905年)にすでに登録され土地の人々に奈良坂の「春日宮」として親しまれている古社がある。この神社が伝承する「平城津彦神社由来(ならづひこじんじゃゆらい)」はこう語る。
 
『天智天皇の第七皇子を志貴皇子といい、和歌に巧みで才気があったが、天武方の勢力が優った壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮(高円山裏の矢田原)に葬られた。志貴皇子には男子があった。その名を田原太子とも春日王ともいった。春日王は重いハンセン病を患ったために、大木(奈良坂の児の手柏である)繁る奈良山の一角に造られた小さな庵に引き籠って暮らした。春日王は、浄人王(きよひとおう)と安貴王(秋王)という二人の息子たちによって、心のこもった看病を受けていた。兄の浄人王散楽と俳優(わざおぎ)に長けていた。ある日春日大社の神前に詣でて、中臣祓(なかとみはらえ)を奏上したあと、おもむろに神楽を舞った。それまでは宮中の女性が神楽を舞うことになっていたのに、これが神楽における男舞の始まりとなった。浄人王は舞いながら、切に父親の病気平癒を春日の神に祈った。そのかいあってか、父春日王の病気は日に日に快方に向かっていったのである。
 祖父である志貴皇子は、神功皇后伝来と言われる大弓作りの技術の伝授を受けていた。この技術は孫にまで伝えられていたので、浄人王は弓を削りつくり、矢を上手に作るのを、日常の作業としていた。そこで父の療養生活を支えるために、兄弟は烏帽子を着け、白い狩衣をまとって、兄のつくった弓矢と弟の採ってきた草花を馬の背に乗せて、都の市に出かけていった。都の人たちは兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。世間の評判を知った春日大社の社司は、浄人王に頼んでもろもろの汚れを祓うための散楽を舞ってもらうことにした。猿女君の子孫(アメノウズメの子孫)たちがおこなってきた神楽の遺風は散楽に残ってきたが、いままた浄人王にはじまる猿楽の「千歳冠者(翁)式三番」として、新しく生まれたのである。桓武天皇はこの兄弟を召して、孝行を褒め称え、浄人王「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
 のちに志貴皇子は、天智天皇系の光仁天皇が即位するとその父親として劇的な復権を遂げ、「田原天皇」のおくり名を受けたのである。田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれたが、これは奈良坂に住んだ春日王のことと関わりがあるかもしれない。』
(神道大系 神社編五より)

 奈良豆比古神社室町時代の翁面をはじめ黒色尉、尉、中将、平太、怪士、般若、曲見等の能面と、祖父、武悪、狐、うそぶき、乙等の狂言面、総計25面を有し、すべて日頃は奈良国立博物館に保管されている。中世以来受け継がれてきた「翁舞」国無形文化財に指定され、毎年10月8日に催される。地元の古老が室町時代の翁面を着け、神に長寿を寿ぐ。この神社は芸能の神としての権威であり明治維新頃まで猿楽(能)はもちろんのこと、歌舞伎など音曲の役者はここに詣でて興行許可を得なければならなかった。また、奈良には無数の「春日神社」があるがその主祭神はみなかの「春日王」なのだ。どうやら春日王の伝説「翁」の、いや能楽の発祥譚とみなして間違いではないらしい。しかし、あの伝説がそのまま「翁」の起源だとすればここに驚くべき価値認識の転換がおこる。はたして「翁」をつとめる大夫には舞台に先立って精進潔斎の義務が課され、家人と寝食を分かって暮らし、食餌を調理する火の共用が禁ぜられる(別火)。そして大夫の精進潔斎の間、ひとり若い男子が身の回りの御世話係として配されるのだ。我々はこの慣習を、清浄なるものに穢れを伝染させない為のものだと信じてきたはずではなかったか?

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