海士と安摩−古代の笑い

古代の笑い観は、現代とは違うのかもしれない。笑いよりも観念の変化がわかりやすいのは、笛・太鼓だ。
安摩にしろ、奈良の春日若宮おん祭りにしろ、あちら側とアクセスしようとするときにはまず、笛・太鼓(打楽器)を奏でる。
それは当初、最も遠くまで響く音だったからだ。しかし今日の喧騒の中ではそんな当初のイメージも失われつつある。

古代においてはとてもありがたく神聖だったが、次第に日常的になりありがたみがなくなったものたち
そんなものは、今日一見豊かな日本では、枚挙に暇がないだろう。
最初に手にしたありがたさを忘れない為に伝えられているのが様々な儀式であり、祭りであるとも考えられる。

ここに、「笑う」神事がある。古代の笑い観をうかがい知る手助けになるかもしれない。

熱田の奇祭「酔笑人(えようど)神事」
一般に「オホホ祭」といわれるこの神事は名古屋市熱田神宮において、毎年5月4日の夕刻から執り行われる。
禰宜以下17名の神職は拝見禁忌の神面が入った箱を持ち、別宮の影向間社へ向う。
神面は古くから誰も見てはならないと伝えられており、神面役の神職は箱から面を出し、狩衣の袖にしまう。
神面役が3度神面を叩き「オホ」といった後、を合図にして全員で「オッホッホッホ」と笑うのである
この動作を影向間社・神楽殿・別宮八剣宮・清雪門の4箇所で執り行う。
日が暮れれば神職手持ちの堤燈のほかは明かりはなく、暗闇の中で執り行われる。かつては酒を飲む次第があったらしい。
 
なんとも不思議な神事だが、「笑い」が、場を清める神聖なパワーを持つという意味で伝えられていることは推察できる。

古代史学者 古田武彦氏は、この神事が縄文以前に端を発すると考える。
そのころ人類の生活において「笑う」ということは、特別なことであったと。
死や苦しみ、逃れられない痛みや悲しみが日常であった。それも、極めて原始的レベルにおいて。
日々の糧を得、日々を生き延びるのが人生の最重要事項であった。
そんな中で思わぬ幸福に見舞われたとき、(大雨で大量の魚が岸に打ち上げられた、とか)皆で笑った。
やがて、「笑う」行為自体が、人々の精神状態、ひいては「場」のエネルギーを転換することに気付く。
そうして意図的に「笑い」を創り出す技術が発展したと考えられるのだ。

安摩と吉本−笑いを創り出す職能集団
笑い、といえば吉本興業。彼らの作り出す笑いがなかったら、私たちの生活はもっとさびしいものになるだろう。
しかし驚く無かれ、この笑いの歴史を遡るとだんだん二の舞に近づいてくるのだ。

漫才が現在のような、しゃべりの掛け合いになりその名も「万歳」から「漫才」へと替えられたのは昭和5年のこと。
当時の吉本興業所属芸人、横山エンタツと花菱アチャコが初めであった。
それ以前の芸のスタイルは、和服姿で鼓と張(は)り扇(せん)をもってリズムをとりながらの滑稽掛け合い万歳が主流であった。
その起源を可能な限り遡ると継体天皇(26代天皇・507〜531年)の即位以前になる。

奈良時代、隋や唐から「踏歌(とうか)」というものが伝えられた。
踏歌とは、数人で円や四角を描きながら輪踊りのようにして地面を踏みしめて踊るもので、
精霊を地中に圧服して置くという呪術的な意味の踊りということらしい。
宮中や寺社において春を寿ぐ儀式で、「源氏物語」中にも記載されている。踏歌の舞人は万春楽(まんずらく)という舞楽を舞う。

踏歌(とうか)の「万春楽」の歌詞

我皇延祚億千齢 (万春楽)   
元正慶序年光麗 (万春楽 万春楽 万春楽)
延暦佳朝帝化昌 (万春楽 万春楽 万春楽)
百辟陪筵華幄内 (天人感呼) ・・・・・(以下略)
(  )内は囃し詞。
くわうえんそう おくせんねん  ゑんせいくゑうくゑねんくわうれい・・・・
(源氏物語「初音」 より)

この儀式はやがて「千秋万歳(せんずまんざい)」という芸能へと変遷する。
平安時代後期に成立した『新猿楽記』には「千秋万歳之酒祷(せんずまんざいのさかほかい)」と見え、
この頃すでに千秋万歳職能として存在し、祝福芸として行われていたらしい。
「万歳」の名がついたのは、祝いを意味する「千秋(せんず)万歳」からきており、
「踏歌」で舞われる「万春楽」をふまえて千秋万歳「まんざいらく」とはやすのである。

鎌倉時代以降は宮中はもちろんのこと、寺社や武家など権門勢家を訪れるようになり、
室町時代の中頃になると一般民家にも門付(かどづけ)してまわるようになり、
ここに万歳が門付芸として広く世に知られるようになった。
この万歳の宮中への参入は大正時代の中頃まであったといい、民間での門付は第2次世界大戦頃までは盛んであったが、
戦後はしだいに衰微し、めぐり歩く万歳の姿はほとんど見かけなくなってしまった。
また、朝廷の権威が弱体化した中世以降、千秋万歳のひとびとは曲舞、声門師らとともに被差別民とみなされていった。

万歳は太夫(たゆう)と才蔵の2人が1組となり、太夫が扇をかざし、いろいろとめでたい寿(ことほ)ぎの詞(ことば)を言い立て、
才蔵が小鼓を打ち囃(はや)して合(あい)の手を入れるという、掛け合いで進行するのである。
服装は古くは舞楽の「万歳楽」の装束をまねてか、太夫は鳥兜(とりかぶと)をかぶっていたが、
室町時代になると侍烏帽子(さむらいえぼし)をかぶり、素襖(すおう)に平袴(ひらばかま)姿が普通となり、
門付をして歩くときには裁着袴(たつつけばかま)をはいた。才蔵は大黒頭巾風のものをかぶり、大袋を背負うのが普通であった。

こうした祝福芸・門付芸としての万歳は各地に伝承されたが、主なものを挙げると、
東北地方には秋田万歳、仙台万歳、会津万歳、北陸地方では加賀万歳、越前万歳(野大坪(のおおつぼ)万歳)、
中部地方には三河万歳、知多万歳、尾張万歳、美濃万歳、関西では京万歳、大和万歳、河内万歳、四国では伊予万歳、
九州では島津万歳、沖縄では高平万歳などがある。

なお、大和万歳は宮中をはじめ公家の屋敷に参入するなど古い歴史をもつが、伝承者は絶えてしまっている。
三河万歳は徳川家康が三河の出身であることから幕府の保護を受け、正月には江戸城に参入したという。
江戸やその周辺を活動の場としたが、座敷に上がって演ずる檀那場(だんなば)万歳としての性格をもち、幕末まで盛んであった。
そして、一般に地方の万歳は尾張万歳の影響を受けたものが多いようである。

本来、門付芸であった万歳も舞台にかけられるようになり、明治中期に嵐伊六が舞台万歳(伊六万歳)を専門とするようになり、
それが万才・漫才の成立に大きな影響をおよぼしたのであった。

踏歌‥消えた舞楽?
こうしてみると「万歳」には、「大地を踏みしめる呪術的要素」が認められない。 
また逆に、舞台上を右旋、左旋して暗号を思わせる今日の舞楽は徹底的に象徴化されていて、
「生の声」のような有機的要素は排除されているように思える。

 舞楽が消えた、というべきか。
 万歳が消えた、というべきか。

おそらく踏歌は、「安摩」のように、舞楽と二の舞のセットだったと思う。
二の舞が独立して、門付の祝福芸と成立していた平安時代には、二の舞も失われていったのではないだろうか。

舞楽と二の舞が分離した理由
今日も、舞楽は宮廷の式楽だ。ちなみに能は、武家の式楽であった。
式楽って、なんだ?公式の音楽、儀式用の音楽。管理組織の象徴。
それゆえに猥雑さや娯楽性は排除され、厳格さ、秩序性、格式が重んじられた。
さて、舞楽・雅楽が朝廷の式楽と定められたのは‥平安京である。「千秋万歳」職の定着と、時代は一致する。

舞楽の、最も呪術的だった部分を、すでにヒトは、必要としなくなっていた。
未知の力、闇の力に替わって、人間が人間を管理し始めた。
呪術をもって祀る側が、祀られる側に回った時代。「天を畏れ、感謝し、祀る。という感覚」が失われてゆく‥

いや、そう言い切るのも早計かもしれない。最初の仮定に立ち戻ってみよう。
「古代にはありがたかったものが、ありがたくなくなること」。
「笑い」の得難い時代に、社会の理想の状態としての「笑い」を設定することが呪術ならば、
国家統一を目指した「秩序厳格」の設定もまた、呪術といえるだろう。
むしろ、この二種類の舞の共存した状態が、二つの価値観の変遷期を象徴しているのかもしれない。

二つの価値観‥「笑い」と「厳格」、カオス(混沌)とロゴス(論理)、闇と光、有機と無機、女性原理と男性原理、神と、ひと。
そして、かつて神に帰属した「笑い」の職能は、笑いが日常化するにつれ二極化した形で遺し置かれたのではないか。


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